『ピンク・フロイド北米ツアー記』番外編
◇ 第31回 ◇
【実にかんたんなまえがき】
8年前に、『プログレオヤジ同盟』に『フロイド北米ツアー記』と題したライブ・レポートを書かせていただいた。
それは幾度かの危機を乗り越えながら今もネット上に現存しているのだが、あそこに書ききれなかったことをいつかどこかに書いておきたいと思っていたのをやっと書く気になった。まあ、なんつってもあれからもう13年以上もたち、記憶もずいぶんと薄れてきたので「ま、そのうち・・・」なんて悠長にはかまえていられなくなってきたのでありますね。
何を今さら・・・という気もするが、あれはオレにとってはフロイドのライブ以外にも実に貴重な体験だったので、ライブ以外のことも書き残しておきたいなあと思ったわけである。
それを語るには、まず時計の針ををライブの約2年前まで戻さなくてはならない。あの、ある晴れた秋の日まで・・・・・
【その2年前】
それは、1992年の10月のころだった。
ウチの会社で頼んだガードマン(交通整理員)にIさんという若い男が来た。なんか頭の良さそうな好青年という感じだったが、その日はとくに話をすることもなく1日が終わった。
会社に帰ってきてから同僚に「あのガードマン、アメリカの大学へ行ってんだと。なんか今休みでこっちへ帰ってきてて、バイトでガードマンやってんだとさ」ということを聞いた時も「ふ〜ん、どうりで頭良さそうな顔してると思ったよ」くらいのことしか思わなかった。
ところが、である。
次の日は仕事場がまわりに何もなかったところなので、昼休みはいつもよりもボリューム上げて作業車のカーステでフロイドを聴いていたら、そのIさんが寄ってきて「ピンク・フロイド?」などと言うのである。その時流れていたのは「クレイジー・ダイアモンド」であった。
オレは「やや」と思いながら「フロイド知ってるかい?」と聞いたら「知ってますよ。アメリカではけっこう人気ありますよ」なあ〜んて言うのである。
おお、これは話せるなあということになり、それからは毎日フロイドがどうのこうの(さすがにこのへんはどんな話をしたのかまでは覚えていない)ということになったのだが、それから数日で「そろそろ向こうに戻らなくてはならないのでバイトも今日で終わりです」ということになってしまった。
そこで、最後にオレがこう言ったのである。
「もし、今度フロイドがツアーやるようだったら、アメリカまで見に行くからそん時は付き合ってくれよな」と。
「あ、オッケーですよ。オレもライブ見に行くの好きですから」ということになったわけだが、この時はまさか本当にそうなるとは夢にも思わなかったのである。
【さらにその4年前】
これは、『ツアー記』とはとくに関係ないのだが、やはりこれも書いておきたい。
1988年3月の鬱ツアー来日公演を見たあとの、学生が春休みになったころのことである。
行きつけのバイク屋でバイトをしていた、これは日本の大学に通う大学生がいた。英語がペラペラらしいという話は聞いていたのだが、その時も「ふ〜ん」というくらいにしか思わなかった。
ところがある日、ハーレーで「幻の翼」を聴きながらドドドドッと、そのバイク屋に乗りつけたら、その大学生が「お、ピンク・フロイドじゃん」などと反応してきたのである。
そこでオレは「おっとぉ〜。フロイドなんか知ってた?」と言うと「知ってますよぉ」と言うんですな。
その時である。「おっ、そうだ!」と思ったのは。
オレはここぞとばかりにこう言ったのである。
「オレが費用とか全部出すから、5月ころ1週間くらいアメリカに付き合わねえか?」と。しかし、
「ええ〜。何しに行くんですかぁ」
「フロイドのライブ見に行くんだよ」
「えええ〜、かんべんしてくださいよ」
と、あっさり断られてしまったのである。ま、トーゼンだけどね。
来日公演を見た時は、まあ初めて見るフロイドのライブなので、それなりに超感動感激したのだが、北米ツアーのブート・ビデオや雑誌の写真、レポなど見ると、どうも来日公演はかなり規模縮小されたものであった、というのがちょっと引っかかっていたのである。
具体的には、まず円形スクリーンが小さかった。照明装置の数もかなり少なかった。火の手が全然上がらない。ブタも控え目にはるか上空に浮かんでいただけで、威嚇するように観客の頭上スレスレまで降りてこない。そして、「オン・ザ・ラン」をやらなかったものだからベッドが飛んで来ねえぇ〜!
演奏のほうは手抜きはなかったので、そのへんは文句はなかったのだが、それ以外は手え抜きすぎだべ、これじゃ。
その後の情報で、5月からまたアメリカでやるというのがわかったので、なんとか完全版の鬱ツアーを見たいと思っていたのだが、ついにそれは叶わなかったのであります。
ということで、次のツアーでは、もしまた来日するようなことがあっても、こりゃアメリカまで見に行かないと話しになんねえなあ、ということになったのである。
しかし、まあその「次」までの長かったこと・・・
【1枚の絵ハガキ】
さて、Iさんと最後に会ってからもう1年以上、なんの音沙汰もないのでそんな人がアメリカにいることさえ忘れてしまっていた1994年の冬も終わりに近づいたころ、音楽雑誌でピンク・フロイドの復活を知ることになる。
各洋楽雑誌などによると、ツアーはかなり大がかりなものになるらしく、「こりゃとても日本には来そうもねえな」と、早くもライブなど見るのはあきらめ、まだ新作も出ない、ツアーも始まっていないうちからブート・ビデオが出るのを待つ毎日となっていくわけであります。
そんな4月の初めのころ1枚のブタの絵ハガキが届いた。
最初は、西新宿のブートビデオ屋からの「フロイド新作ブートのお知らせ」かと思ったのだが、それはすっかり音信の途絶えていたアメリカのIさんからの国際便であった。
それによると、フロイドがツアーを開始し、Iさんの住んでいるインディアナポリスにも来ることになったのでチケットは押さえたのだが、そのころ自分は夏休みで日本に帰ってしまうがどうするか? というものであった。チケットはキャンセル(誰かに譲渡?)できるという。
これを読んだオレは、後先のことなど考えるよりも早く、なにはともあれ初めて国際電話などして、とりあえず「行きます! アメリカまでフロイド見に行きます!!」と伝えたのである。
それから、何度か電話と手紙で連絡を取り合い、渡航には当日日本に帰ってきているIさんに再度アメリカに同行していただくことでなんとか話がまとまった、
この、「夏休みで日本に帰ってきてしまう」というのがオレにとってはラッキーだった。「チケット取ったから来てね。アメリカで待ってるよ〜ん」なんていうことになったのでは、とてもオレ1人ではアメリカまで行くことはできなかったろう。
コンサートは6月14日に行われるので、日本を12日(日)に発ち、19日に帰ってくることにした。1回見るだけだったら3日も行ってくればいいのだが、もしかして、次の公演地が近かったら2回見られるかもしれないと思って実質1週間にしたのである。
この時、なんとかコンサートの日程がわからないものかと片っ端から洋楽雑誌を見てまわったのだが、いつころまでに飛行機のチケットは用意したほうがいいというまでにわからなかったので、鬱ツアーの日程(インディアナポリスの次はセントルイス)を参考にしてIさんに聞いたところ、「セントルイスなら近いから行ってもいい」というので余裕のある日程にしたわけである。(こっちの日程が決まってから、インディアナポリスの次はアイオワというのがわかり、「ちょっとそこまで行くには遠すぎますねえ・・・」と言われ、一度はあきらめたのだが、結局アイオワまでも見に行くことになる)
「ところで、飛行機の切符はどこで何を買えばいいんだかわかんないんだけど・・・」と言ったら「それは(東京の大学に通ってるらしい)妹に頼んでおくから大丈夫です」ということになった。いやあもう何から何まで本当にすまぬすまぬである。
航空券は、成田 → シカゴ → インディアナポリスで、エコノミー往復2人で23万円であった。
【ラスベガスで豪遊?】
5月になると、各洋楽雑誌に対ツアーのレポなどが載りはじめる。なんかもう、とんでもないライブを繰り広げているようで、それらを読むたびにコーフンしてハァハァしてしまう。
5月下旬になったころ、Iさんから「帰国しました」という連絡が入る。
日曜日に会い、買い物などに付き合ってもらう。荷物を入れるバッグはどんなのを持っていったらよいかわからなかったので選んでもらう。それから、オレはそんなの知らなかったのだが「保険に入ったほうがいい」というので、期間限定らしい「海外旅行傷害保険」などというのに加入する。これは近くのJTBでかんたんに手続きできた。
インディアナポリスの気候は、日本とだいたい同じくらいということなので、持って行くものでは一番かさばる衣類が少なくてすむのがよかった。
ところで、現金はいかほど持っていったらいいのかよくわからなかったので、「とりあえず100万も持って行けば大丈夫かな?」と聞いたら「ええ〜、そんなにいらないですよ。そんなあったらラスベガスで豪遊できちゃいますよ」などと言われてしまう。
「それじゃ50万もあればいいかな」
「向こうで他に行きたいところ、やりたいこと、買いたいものはあるか?」
「とくにない」
「それじゃ10万もあれば十分ですよ」
と、思っていた額の1/10になってしまった。
まあ、言われてみれば最大の出費と思われる飛行機代はすでに支払っており、むこうでの宿泊はIさんのアパートに泊まるからタダなので、何も買わなければ食事代くらいしか使うものはないのである。
インディアナポリスにブート屋はあるか聞いたら、「自分が知っている限りでは近くに一軒あるだけ」という。もしかしたら、そこにとんでもない掘り出し物があるかも知れないし、本屋、CD屋にはつれていってもらう予定なので、何買うかわからないのでその分10万、あと予備で10万と、30万ほど持っていくことにした。
そのうちいくらかは「こちら(日本)でドルに変えていったほうがいい」というので、10万円をドル換算していく。
当時は、1ドル110円くらいだったような気がした。
これで、渡航準備もすべて整い、あとはお互いの家を行ったり来たりして一緒にCDなどを聴きながら、出発を待つばかりとなった。
【出発】
6月12日(日)のお昼ころ、駅で待ち合わせをして、とりあえず新幹線で東京に向かう。
恰好は、いつものスタイルを崩すこともなく、ジーパンにTシャツである。日曜日の夕方、いつもの本屋に行くのとアメリカに行くのが同じ恰好というのもいかがなものか、という気もしたが、ほかに気のきいたものも持っていないのでこれでいいのである。
Iさんは、とくに自分の手荷物などはないのだが、なんとサントリー・モルツを1ケースかついできた。アメリカにいる日本人の友達に持っていくという。その友達はこれが好きなのだが、アメリカには売ってないので持って来いと言われたらしい。「いや、ホントにむちゃくちゃ言うやつで・・・」などと言いながらも、駅構内をむき出しのままビールの箱を肩に担いで歩いている姿がちょっとカッコよかった。
新幹線を上野で降りて、そこからしばらく歩き、何線だかもわからない電車を何本か乗り継いで3時ころ成田に到着。飛行機の出発は 午後5時45分だが、その2時間くらい前に行ってないと搭乗手続きなどに間に合わないらしい。
オレは、飛行機などは乗ったことがないので、ここに来るのもトーゼン初めてである。まして、これからアメリカまでフロイドのコンサートを見に行くなんてのも初体験なので、なんかもう空港に着いただけで、興奮しまくり緊張しまくりであった。
航空会社はユナイテッド航空なので、そこの窓口(?)への長い列に並ぶ。このへんになるともう日本人よりも外人のほうが多い。
窓口にいるのは当然アメリカ人で、搭乗手続きをIさんが英語でやりとりしているのをオレは横で見ていただけだったのだが、あ、これじゃ1人でなんか来たんじゃてんで話になんねえべな、などと思ってしまう。
機内の座席は3人がけのところで、真ん中が日本人のビジネスマンふうだったので、頼んで席を替わってもらう。
座席はエコノミーなので、これは小柄なオレでもさすがにきついなと思った。
機内でのことはあまりよく覚えていないが、機内食が出てきた時のIさんと、となりのビジネスマンふうの食べ方つうもんが、あの小さなテーブルをうまく使い、狭い座席で何事もないように食べているのを見て、「う〜ん、場慣れしているなあ」などと思ってしまう。
飛行機なんか乗ったら気持ち悪くなってしまうかな? とも思っていたがそんなこともなく、ただ座席が狭いなあと思うくらいであった。数時間おきにちょっとした振動があったので、機内では熟睡はできなかった。
あと、外国の飛行機でも、日本への国際線になるとスチュワーデス(客室乗務員?)にひとりは日本人がいると聞いたが、どうもそのへんはいたのかどうか気がつかなかった。
【ついにアメリカへ】
6月12日、午後3時ころシカゴ到着。12日の夕方乗ったのにまた12日に戻ってしまった。時差があるのでよくわからないが、成田からシカゴまで12時間くらいだったと思う。
飛行機から降りて、空港の建物に入ったら周りが外人ばかりなのにあらためて驚いてしまう。若いねーちゃんなどはみんな映画スターに見えてしまった。
シカゴからは国内線に乗り換え、インディアナポリスに向かう。この間は1時間くらいだった。
日頃から、朝方寝たりお昼過ぎに起きたりしているので、時差ボケのようなものにはならなかった。
夕方、インディアナポリスに着き空港を出たところに、Iさんの友達でサントリー・モルツを持ってくるよう頼んだYさんという人が出迎えに来てくれていた。かんたんなあいさつをしたあと、とりあえずYさんの車で食事に行くことにした。
何を食べたか忘れてしまったが、アメリカではこういうところではチップを渡すらしい。金はオレが持っていてもしょうがないので、財布はIさんにあずけてあるのだが、オレにチップをいくら渡せばよいかと聞いてきた。そんなことオレに聞かれてもわからないので、「んじゃ20ドルくらい?」と言ったらYさんが「そりゃ多すぎですわ」というので10ドルにした。それでも「多い」と言っていた。
こちらでかかる費用は、食事代はもちろんのことすべてオレが負担することになっている。そんなことは相談するまでもなくオレがそう決めたのだが、当然であろう。
それからスーパーでちょっとした買い物などをして、Iさんのアパートに行く。
部屋は14畳くらいのワンルームで、バス、トイレ、洗面台はあるがキッチンはない。部屋の中に自転車が置いてあるのがいかにもアメリカのアパートだなあという気がした。
壁に、写真でよく見るマチュピチュ空中都市の大きな絵が張ってあったので「これは?」と聞いたら「あ、それは去年行った時に描いてきたんですよ」などと、かんたんに言われてしまう。
オレは、夜寝る前にシャワーだったが、Iさんはそのまま寝てしまい、朝起きてからシャワーを浴びてた。とくに聞くことはしなかったが、これがアメリカ流なのであろう。
【6月13日】
お昼ころ起きて、Iさんの車でマックみたいなところへハンバーグを食べに行ったのだが、ここでいきなりびっくりしてしまう。
他にも何人か客がいたのだが、そのコーラの飲み方というものがすさまじいのである。
コーラは1回金を払えばあとは飲み放題らしいのだが、置いてある紙コップが500mlくらい入るものなのですな。で、見てるとまずそれで一杯飲み干して、食べながらもう一杯飲んで、帰る時にまた一杯注いでそれを飲みながら帰っていくのである。アメリカ人はコ−ラ好きとは聞いていたがあれほどとは思わなかった。
そのあとは、スーパーへ買い物に行く。荷物を少なくするために下着類は持ってこなかったので、パンツとかTシャツなどを買いに行ったのだが、どれもサイズがデカイのである。サイズは4段階くらいに別れていたが「Junior」(13歳〜くらい?)ではでか過ぎるので「Boy」(12歳以下?)というところに置いてあったのを買う。
食料品売り場などを見ると、野菜などもその1個1個がかなりでかい。ピーマンがふつうのリンゴくらいの大きさである。
まわりにいる人もみんなでかくて、ホント、アメリカってなんでもでかいなあと思ってしまう。
オレは缶コーヒーが好きなのでここでまとめて買っていこうと思ったのだが、なんと、アメリカにはポッカ・コーピーみたいな缶コーヒーがないのである。ていうか、アメリカ(インディアナポリス)には自販機がコカコーラ、ペプシコーラ、7upの3個しかないと言う。日本みたいにあんなにあったら、片っ端から荒らされてしまうので自販機はなるべく置かないらしい。
とーぜん、缶ビールの自販機もない。酒類は店で買うしかないらしい。さらに酒類は日曜日は売らないというのでまたびっくり。
ということで、缶コーヒーがなかったので、瓶入りのコーヒー牛乳みたいのを買っていく。
あと、アメリカ人はすごいと思ったのは、人ごみの中で身体が触れたりすると必ず「Excuse me」と言うことである。オレより30センチも背の高い人にそんなこと言われると、なんか恐縮してしまって日本語で「あ、どうも・・・」などと言ってしまう。
目と目が合っただけでいちゃもんつけてくるような日本のクソガキはこういうのを見習わなくてはならないのだよ。
【ゴミがない】
それから、フロイドのTシャツを売っているという店につれてってもらう。そこには、ジャケデザインまんまのTシャツがいっぱい置いてあったが、どれもL以上のサイズばかりでこれじゃとてもオレには着られそうもない。ひとつだけ、Mサイズのハンマー行進の実にかっこいいのがあったので、これを買っていく。
その後、車で街中などを案内してもらう。交差点の電光掲示板には、おお「PINK FLOYD 14,6」の文字が。そのライブが行われるフィジャー・ドームにも行ってみる。「う〜ん、明日ここでフロイドのコンサートがあるのか」と思うと、もうそれだけで胸がきゅーんと熱くなってしまう。
途中Iさんが「あっ、あれあれ」というから何かと思ったら、なんとまあトレーラーが家を丸ごと積んで走ってるぅ。う〜ん、家ごと引っ越ししてしまうとは。アメリカ在住のIさんが驚いたくらいだから、そうもこういうのはないのだろうが、これにはびっくり。まったくアメリカという国は驚きの連続である。
街中を車で走っていて気がついたのは、ゴミが落ちてないということである。これはちとすごいことではないかと思った。なぜゴミが落ちてないのか聞いたら「誰も捨てないからでしょ」などと当たり前のことを言われてしまう。アメリカ(ここでいうアメリカとは、おもにインディアナポリスでのことをいう)でもゴミの収集場所みたいのがあり、ゴミを出す日も決まってるようだが、日本みたいに分別はしないでなんでもごちゃまぜでいいらしい。だからきっと、日本みたいに分別するのが面倒だから捨てちゃうという人もいないのであろう。でもたまに、道路に車のマフラーなんかが落ちていたりする。走ってる間に外れちゃった?
ゴミは落ちていないが道路は汚い。何で汚れているのかというと車のエンジンオイルである。車がボロクソなのかなんなのか知らないが、アメリカ人はそういうのは気にしないらしい。道路の真ん中(タイヤの間)には、まるで線を引いたようにずーっとオイルが垂れたあとが続いている。アパートの駐車場なんかも、車が止まっている下はどこもオイルが落ちてたまっているので笑ってしまう。
そういえば、昔のハーレーもよくオイルもれしていたな。きっとこれがアメリカ・クオリティなのであろう。
信号は、日本みたいに柱に付いているのではなく、柱間に張った支線に取り付けられており、道路の真ん中にぶらさがっいる。各車線ごとに1個付いてるところもあった。
ちなみに、アメリカでは信号が赤でも対向車がなければ右折だけはしてもかまわないらしい。
【飲酒には厳しい】
夜はステーキでもということで、そんな店に行く。
肉のやわらかそうなところを頼んで待っていたら、まず大きなボールみたいなのに入った野菜サラダみたいのが出てきた。これを皿に取りドレッシングなどをかけて食べるのだが、これがうまかったのでバリバリ食べていたら、「そんなに食べたら肉が食べられなくなっちゃいますよ」などと言われてしまう。
Iさんが「ビールを飲んでもいいか」というので「ええ、もうどんどん飲んでくれ」と言う。
で、ビールを頼むときに免許証など見せているので「それは何?」と聞いたら、アメリカでは酒類を頼む時は免許証を見せて、確かに20才以上(このへん何歳だったかはど忘れ)であると確認してからでないと、酒は飲めないのだという。免許証以外の証明証の類はいくらでも偽装できるので、どうも免許証じゃないとだめらしい。
コンサート会場なんかだと、年令確認後は手首に紙バンドみたいのをつけてもらい、以降はビールなど買う時はそれが目印となる。これは切ったり外したりするとわかるようになっているらしく、それを他の人がつけて買うことはできない。
どう見ても20才は過ぎてるべとわかる人はその必要はないらしいが、どうも日本人は若く見られてしまうらしい。
ま、なんにしても飲酒には厳しい国だなあと思った。
そうこうしているうちにステーキが運ばれてきたのだが、そのでかさにまたびっくり。DVD『驚異』のパッケージを2枚重ねたくらいのが出てきた。一緒についてきたジャガイモとかニンジンがこれまたでかい。さらに黒パンみたいのも運ばれてきた。とてもじゃないが全部は食べ切れなかった。う〜ん・・・アメリカ人は毎日こんなのを食べているのか。これじゃ日本も戦争負けるわけだと思ったね。
「ところで、これはいくらなんだい?」と聞いたら「9ドルですね」と言われてまたびっくり。これで1000円て・・・
こんなの日本で食べたら5000円くらい取られそうである。
ガソリンは1リッター120円くらいの表示が出ていたので、これは日本とたいして変わりないなあと思ってよく見たら、1リットルではなく1ガロンだったくらいだから、ホント、アメリカって物価安くていいなあと思ったね。
【6月14日】
いよいよ今日はコンサートの日だが、それは夜なので、昼間はいつもお昼くらいまで寝ていて、それから本屋、CD屋などにつれていってもらう。
本屋は、当然といえば当然だが、どれも英語の本ばかりでなんだかわからずやっぱこういうのは見ていても面白くない。さっさと切り上げて、CD屋のハシゴをする。同じ英語ばかりでも、CD、レコードのほうが見ていて面白い。
オレが住んでいる町のCD屋にはないような、「テイク・イット・バック」のシングルCDや、『対』のLPなどを買ってしまう。
シングルCDは5ドル。LPは11ドルであった。日本の半分である。さらに、新品でも古くなると値段を下げてくるらしい。
あとは、ハーレーが置いてあるというバイク屋に行き、ここでまたまたTシャツなどを買ってしまう。これはかなり気に入ったので毎年着ていたら首のところが擦り切れてしまった。2枚買ってくればよかったと今ころになって悔やむ。
さらに、ハーレーのライターとかボールペンとか、どーでもいいようなものまで買ってしまう。
そして、いよいよコンサート会場であるフィジャー・ドームに行く。
以下、コンサートの模様と、アイオワにまで行くことになったいきさつは『ピンク・フロイド北米ツアー記』参照。
フィジャー・ドームでのコンサートが終わったあと、Yさんのアパートへ行く。
Yさんは20代後半らしいが、やはり大学へ行っているという。アメリカでは、Iさんもそうだがひとつ大学が終わるとまた別の大学へ行くという人が多いらしいので、詳しくは聞かなかったがきっとYさんもそうなのであろう。食事でビールなど飲む時は「この年になって、なんでいちいち免許証見せなあかんねん」などと言ってたのが笑える。
「PINKさんも、もうこっちへ住んだらどうですか?」というので「いやあ・・・英語話せないですからねえ」と言うと「ほんなもん、こっちに半年も住んでれば自然と覚えてしまいますわ」などとかんたんに言われてしまった。
関西の人らしく、ファンだという宝塚の大きなポスターが壁に貼ってあった。
アイオワまで行くのに使うレンタカーもYさんが手配してくれた。ちなみにレンタカーは、2日で166ドルであった。同じ2日でも走行距離数が少なければもっと安いらしいが、今回は2000キロくらい走るかもしれないので、距離数無制限にしたのでちょっと高くなったらしい。
その後、また3人で食事に行った時などは、レストランのメニューをオレが変わったおみやげとしてなんとか持ち帰れないないかなあと、冗談半分で言った時も、「まかしとき」なんつって腹に隠して持ち出してくれたという、実にいい人であった。
【6月15日】
この日は、インディアナポリスから南へ100キロくらい行ったところにあるブルーミントンという町のブートCD屋に行く。
ブート屋は「近くに一軒ある」というから、もっともっと近いのかと思ったのだが、こんな遠くだったとは思わなかった。アメリカでは100キロくらいの距離は近いほうなのであろう。
ブルーミントンは大学生の町である。きっとフロイドのブートなどを買うのも大学生なのだろうな。
アメリカでは、正規盤のCD、レコードは安いが、ブートは高い。『total eclipse』はここで初めて見たので買ってきたのだが、ちょうど100ドルだった。(その後、西新宿で見た時はもっと安かったような気がした)
売るほうも、これは違法であると認識しているらしく、リスクもあるので値段も高めなのであろう。ここは新品も売っているのだが、ブートのレシートは手書きのものであった。
あとは、またインディアナポリスまで戻ってきて、それから「ちょっと変わったところへ行ってみますか」などと言われ、ハダカのね−ちゃんが踊っているバーみたいなところへ行く。
やはりここでも酒を頼む時は免許証を見せていたが、入る時はそのまますんなりだった。う〜ん・・・このへんはどうなっているのであろうか?
オレはここでもコーラなどを飲んでいたのだが、そのうちねーちゃんが踊りながら各テーブルなど回り始めた。どうやら客のチップが目当てらしいが、まあここはそういう店なのであろう。
Iさんが、「ここに来たらこれをパンツの間に挟んでやるように」と、1ドル札を数枚オレによこすので、ちと緊張してしまう。顔などなでられたらどうしよう、などとちと引きつってしまったが、そんなこともなく、可愛いねーちゃんだったので3ドルほど挟んでやったら「サンキュ〜」といったような表情を見せ、すぐに隣のテーブルに行ったのでホッとした。
店によっては、全部脱いじゃうというところもあるようだが、それだと1ドル札挟むとこないよな気もするのだが・・・え?・・・まさかぁ・・・きゃあ〜〜。。。
そのうち小便がしたくなったのでトイレに行ったら、ここでもまたまたびっくり。小はまあ普通なのだが、大のほうが個室ではなく、囲いもなく、ただ便座が並んでいるだけなのである。
「これって、ウンコしたくなったらどうするん?」と聞いたら「そのままする」と、かんたんに言われてしまう。おそらく犯罪防止のためわざと個室にしないのだろうが、いやあびっくりしました。
なんつうか、いかにも場末のストリップ・バーという感じであった。
翌日は、アイオワまで行かなくてはならないのでこの日は早く寝る。
テレビは、かなりのチャンネル数があったような気がしたが、なんつっても何言ってるんだかわからないのでほとんど見なかった。
【6月16日】
ピンク・フロイド、2度目のコンサートを見るべく朝早く起きて、一路アイオワへ向かう。
ハイウェイはどこまでも真っ直ぐで、土地はどこまでも真っ平らである。渋滞もまったくないので快調に走り続ける。
日本の高速道路みたいに2〜30キロおきにサービスエリア(のようなもの)などはない。レストランなどはたまにぽつりぽつりとあるだけだったりする。なんといっても広いので、走るだけ走って店があったらそこでゆっくり休むという考え方らしい。
ふと、気がつくとうしろからハーレーが10台くらい走ってきた。「わっ、すげえ」と見ていたら、Iさんに「うしろは見ないほうがいい」と言われる。その言葉になんとなく納得してしまう。
ガソリンスタンドは、セルフサービスの店が多いので、フロントガラスについた汚れや虫の死骸などは、ブラシとバケツが置いてあるので水をくんてきて自分で洗わなくてはならない。
スタンドの店員はおじさんがひとりいるだけで、イスに座り、分厚そうなウインドーからじっとこちらを見ているだけで、出てくるような気配はまったくない。そういえば、洋画にもこんなシーンよくあるよなあ、と思ってしまう。
店員が出てこなくてスタンドの支払いはどうしていたのか覚えていないが、カードでの自動支払いかなんかだったかも。
車中では、日本から持ってきたフロイドのカセットテープを繰り返しずーっと聴いていたのだが、さすがにフロイドはもういいという感じで「ラジオにしていいか?」などと言われてしまう。
88年の来日公演の時、カセットテープに「幻の翼」「現実との差異」「時のない世界」の3曲だけ録音し、それだけを延々と聴きながら名古屋まで高速走ったもんだけどねえ、と言ったら「おお、やだやだ。パラノイアだ」なあ〜んて言われてしまった。
【ついにアイオワまで】
コンサート会場のアイオワ州エイムズというところまでは、インディアナポリスからだともう800キロか900キロくらいあるのだが、途中休憩しながらでも9時間くらいで着いてしまった。(午前7時出発 → 午後4時到着)
ハイウェイとは言うものの、走ってきた道路は有料でもなく、普通の一般道なのである。日本の道路ではこうはいくまい。途中の都市部でもまったく動かなくなってしまうというような渋滞はなかったし、どこが違うのであろうか?
やはりこれは、わりと田舎のほうで「広いから」ということに尽きるのではなかろうか。大都市周辺や、それらを結ぶ幹線道路なんかじゃどうなってるか知らんけどね。
エイムズに着いてからすぐ、Iさんはダフ屋を探しに行くというので、オレはその間カメラを持って会場周辺をウロウロする。「ビデオカメラは?」と言うから「それは写真を撮ったあとに」と言ったら、後部座席に置いてあるビデオカメラにタオルなどをかけていた。
車の中でも見えるところにはめぼしいものは置かないほうがいいらしい。「鍵かかっていても?」と言うと「日本の常識はここでは通用しない」などと言われてしまう。
Iさんも以前、アパートの駐車場に停めておいて車上荒らしにあったらしい。盗られたものより割られた窓ガラスの修理代のほうが高くついたとか。
以下、コンサートが終わるまでは『ピンク・フロイド北米ツアー記』参照。
【トンボ帰り】
コンサートは、始まったのが9時過ぎだったので、終わった時は12時を過ぎていた。終わったあとも、スタンドでしばし余韻に浸っていたので、「それじゃそろそろ帰りますか」といった時はもう1時近いころであった。
コンサートが終わったあとは、近くのモーテルに泊まっていく予定だったのだが、どこもツアー・クルーの貸切になっており、空いてるところはなさそうなので、このまま帰ることにする。
できれば運転を変わってやりたいところだが、そうもいかないのでIさんにはお疲れ本当に申し訳ない。この、右側通行というのは、ハイウェイをただ走っていくだけならオレでも運転できそうなのだが、左ハンドルというのが慣れないやつにはいかんともしがたい。
アイオワに来る前、駐車場の広いところでちょっと運転してみたのだが、感覚が全然違うのでとてもじゃないが左ハンドルの車なんぞは運転できないなあと思ったね。
帰りの車中、ラジオからフロイドの曲が流れてきて、DJみたいのが何か喋っているので「なんと言ってるのか?」と聞いたら「みんな、昨日のピンク・フロイドのコンサート見たかい? すごかったねえ」とか言ってるようであった。
【6月17日】
途中、何度も仮眠、休憩などしながらお昼ころにはインディアナポリスまで帰ってきた。
明日の朝には日本への帰りの飛行機に乗らなくてはならないので、今日のうちにおみやげなどをまとめて買ったりする。
【6月18日】
朝、Yさんが車で迎えに来る。その車で空港に向かう。
Iさんは、まだ夏休みなのでオレと一緒に日本に帰ることになっている。ま、そうしてもらわないとオレひとりじゃ帰れないしね。
Yさんにはさんざんお世話になりながらなんのお礼もできなかったので、日本から持ってきたウォークマンをもらっていただく。
インディアナポリス → シカゴ → 成田と、来た時とは逆コースで日本に帰ってきたのだが、このへんはもう疲れてしまったのか、あまりの感動に頭が真っ白になっていたのか、あまりよく覚えていない。
【かんたんなあとがき】
アメリカ滞在中は、雨が降ることもなくいい天気だったのがまずよかった。
隅々まで見たわけではないが、チンピラみたいのもいなかったし、爆音まき散らしながら走ってる車もバイクもなかったし、なんとなく住みやすそうな街だなあと思った。それになんつっても物価が安いのがいい。
もし、オレがもっともっと若くて英語もペラペラだったら、かなりの確立で永住してしまったような気がするな。今やってる仕事ならアメリカでもなんとかやっていけそうだしな。あ、英語ができるほど頭よかったらこの仕事してないか・・・
ということで、最後はかっこよくまとめようと思ったのだが、どうもうまくまとまらないのでこれまで!
【それから】
その後もまた長い音信不通になっていたが、1998年の秋に「久しぶりに帰国しました」という連絡があった。
ウチに遊びに来た時に「最近ピンク・フロイドはどうですか?」と言うから「雑誌なんかにもあまり載らないから何やってんだかさっぱりわからんです」と言うと、「インターネットやったらどうですか。あれはマニアなんかがけっこう集まって情報交換とかしてるから何かわかるかも知れませんよ」などと言うのである。
それまで、パソコンのパの字も知らず、インターネットなどにはまったく無関心で興味もなかったオレにとって、この一言は決定的だった。「そうか、その手があったか」と。また、この一言は時期的にも実にタイミングがよかった。
もし、このアドバイスがなかったら、オレがPCを買うなんてのはもっともっとあとのことになっていただろうし、プログレオヤジとの出会いもなかっただろう。『フロイド北米ツアー記』を書くこともなければ『別宅』を作ってもらうこともなく、今のオレもなかっに違いない。
ネットやることを勧めてくれたIさんにはもう感謝のしようもないほどである。
その後に届いたメールには、「アイオワまでフロイドを見に行ったのがいかにクレイジーな旅だったか、というのをみんなとよく話していますよ」などと書いてあった。にもかかわらず、「フロイドの次のツアーはいつころになりますか? 日程などわかりましたら連絡ください」ともあった。
なんか、次のツアーにも付き合ってもらえそうである。
しかし、その「次」は・・・・・
2007,11,18
☆ ☆ ☆
2007,6,6
☆ ☆ ☆
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